吉高由里子 ドラマ「光る君へ」第40話「君を置きて」!

吉高由里子のドラマ「光る君へ」第40話「君を置きて」です。

1011年(寛弘8年)5月、藤壺では、まひろの書いた「源氏物語」の朗読会が開かれました。
中宮・藤原彰子の女房である宰相の君が「藤裏葉」の巻を朗読すると、敦康親王はまひろに「登場人物の藤壺女御は、光る君をどう思っているのか」と尋ねます。

まひろは、曖昧に微笑むだけで答えません。
しかし、藤原道長が「藤壺の想いを得たとしても、光る君は幸せにはなれない」と口をはさみます。
未公表の物語を知っているような口ぶりに驚くまひろですが、局で物語の先を読んだのだろうと察しました。

それから間もなくして、一条天皇が床に伏してしまいます。
藤原道長は一条天皇の病状を心配し、「大江匡衡」に占わせました。
すると大江匡衡は、一条天皇に崩御の卦が出ている、と答えます。
この結果を一条天皇は寝床で聞いていました。

藤原道長は、公卿達を清涼殿に集め、一条天皇の譲位について提案します。
占いの結果に触れずに持ちかけたため、藤原実資は、まだ30代という一条天皇の年齢を考えても、譲位は早すぎる、と譲位に反対します。
しかし、他の公卿達で異を唱える者はいませんでした。

また、藤原道長は、藤原公任、藤原斉信、藤原行成、源俊賢の「四納言」を土御門邸に呼び集め、藤原彰子の産んだ敦成親王を次の東宮にすることを相談します。
藤原行成は、一条天皇と藤原定子の第1皇子である敦康親王が東宮になるべきだと述べますが、他の3人は藤原道長に同意します。
3人は、譲位に反対している藤原実資と、敦康親王の後見人である藤原隆家を説得することを誓います。

同年5月27日、一条天皇は、清涼殿に藤原道長を呼び、譲位することを告げました。
そして、現東宮の居貞親王と話がしたいと言います。
そこで藤原道長は、居貞親王のもとを訪ね、一条天皇の意向を伝えました。

その帰り、藤原道長は、娘であり、居貞親王の后となった藤原妍子の部屋を訪れます。
藤原妍子は、高価な布地を購入しているところでした。
藤原道長がそのことを諫めると、藤原妍子は「父のために我慢して居貞親王の后になったのだから、これ以上の我慢はできない」と言い放ちます。
さらに、藤原妍子は、居貞親王の息子である「敦明親王」の妻になった方が良かったと言い、藤原道長は言葉を失うのでした。

一条天皇は、藤原行成とふたりになった際、次の東宮を第1皇子である敦康親王にするよう藤原道長を説得してほしいと頼みます。
しかし、藤原行成は、第4皇子だったにもかかわらず、重臣の外戚がいたため、東宮になれた56代「清和天皇」の話を引き合いに出しました。

同じように藤原道長も重臣であり、敦成親王の外戚であることを考えれば、敦成親王が東宮になることは必然的だと伝えます。
一条天皇は、これを聞き入れました。

藤原行成は早速、「一条天皇が、敦成様を東宮にと仰せになりました」と藤原道長に報告します。
藤原道長は「藤原行成あっての私だ」と喜び、その言葉に藤原行成もまた感激するのでした。

しかし、藤原彰子は、藤原道長から一条天皇の譲位と次の東宮の話を聞かされ、激怒します。
藤原彰子は自分に何の相談もなく、勝手に東宮を決めた藤原道長を怒鳴りますが、藤原道長は「政を行うのは私であり、中宮様ではない」と言い放ちます。
藤原道長が去ったあと、藤原彰子は「なぜ女は政にかかわれないのだ」と、まひろの前で泣き崩れるのでした。

11日後の6月13日、一条天皇は譲位し、居貞親王が67代「三条天皇」に、敦成親王が東宮となります。
藤原隆家から報せを受けた敦康親王の姉「脩子内親王」とききょうは、この結果を嘆きました。
しかし、当の本人である敦康親王は、「穏やかに過ごすのも悪くない」と静かに聞き入れます。
やがて、譲位後に出家した一条天皇は、6月22日に崩御します。